山口義人 プロフィール
山口義人 略歴
1967年(昭42) 九州 福岡生れ。
1980年(昭55) 春日西小学校卒。
1983年(昭58) 春日西中学校卒。
1986年(昭61) 県立筑紫高等学校卒。
1991年(平3) 福岡大学商学部商学科卒。
大学在学中に、宅地建物取引主任者資格(宅建免許)を取得しました。
福岡にてさまざまな営業経験を経て、
1994年(平6) 東京に上京。
1996年(平8) 元祖便利屋 右近勝吉師の下で修業し、
1997年(平9) 右近師より免許皆伝され、
1997年(平9)東京都狛江市にて便利屋を開業しました。
2005年(平17)春 福岡の父が脳梗塞とガンで総合病院に入院、母は父の看病で心労をわずらい精神的に弱り、一人息子の私は、生まれ故郷の福岡に帰省することを決意。
2005年(平17)夏 家族と共に福岡に帰省し、
2005年(平17)秋 東京で行ってきた便利屋をお助け隊として福岡で再スタートしました。
脱サラし便利屋として東京で8年が過ぎ、福岡の実家で問題発生
1994年(平6) 、私は福岡を離れ東京に上京。
東京にて脱サラし便利屋の仕事で8年、生活も仕事も安定した2005年(平17) 福岡の実家で問題が発生しました。
その当時、実家の問題を私の代わりに解決してくれる人が見つからず、実家、両親に関する問題を自ら解決することに。
2005年(平17) やむなく東京から福岡へ妻子と共に帰省。
仕事の引継ぎや引っ越し、新生活の準備を行いつつ、実家・両親の問題を並行して解決するのは、肉体的にも精神的にもかなり大変な作業でした。
私はその当時、まだ38歳でしたので、なんとかやれましたが、これがもし50代、60代だとしたならば、果たしてやりきれたかどうか、考えただけでもゾッとします。
私と同じように、実家を離れて暮らすご家族が、ご実家、ご両親に関するお困り事を解決するのに実家に帰らなくても済むように、色々たいへんな思いをしなくても済むように、
ご家族様が信頼・安心してご実家・ご両親のことを任せられる【便利屋】暮らしなんでもお助け隊 をスタートしました。
信頼・安心して任せていただくために
私は、実家を離れて暮らすご家族に信頼され、安心してご実家のこと、ご両親のことを任せていただくために、
信頼・安心できる会社の証として、2005年(平17) 福岡で【便利屋】暮らしなんでもお助け隊 の仕事を開始した時から、当社に作業を依頼されたお客様から手書きの生の声を頂き、お客様からの評価を重視しました。
福岡で【便利屋】暮らしなんでもお助け隊の仕事を行ない今年で17年になります。
おかげさまで信頼・安心できる会社の証として、福岡で1番!現在もなお、お客様の声を手書きでいただき続けています。
さらに、
お客様の笑顔の写真も福岡で1番!現在も頂き続けています。
東京と福岡、仕事内容に違いは?
片付け、お掃除、荷物移動、庭の手入れ、壊れた個所の修理など、東京と福岡どちらも依頼される仕事内容に変わりはありません。
ただ大きく違う点が1つだけあります。
それは仕事を依頼するお客様です。
私が東京で「便利屋」を開業した当時、依頼されるお客様の8割以上が70代~80代のお父さん、お母さんご本人でした。
しかし、福岡にて【便利屋】暮らしなんでもお助け隊をはじめた時、依頼されるお客様の8割以上が70代~80代のお父さん、お母さんの息子さん、娘さん、ご親族さんに変わったのです。
理由ははっきりしていました。
東京の宣伝広告はチラシでしたが、福岡では、インターネット広告でホームページを宣伝する方法に切り替えたからです。
なぜチラシからインターネットへ変えたのか?
私が経験した困った状況が大きく関係しています。
私が東京にいた時に、福岡の実家、両親の問題解決を、福岡の業者さんにお願いしようと考えました。
しかしその当時、東京にいながら、福岡の業者さんの詳しい情報を得ることができませんでした。
福岡にて本当に信頼、安心できる業者さんが誰なのかが分からなかったのです。
ご近所に配るチラシでは、ご実家やご両親のことでお困りの実家を離れて暮らすご家族様にはメッセージが届きません。
だから、【便利屋】暮らしなんでもお助け隊のホームページを作って、実家を離れて暮らすご家族様に向けインターネットで宣伝広告することにしたのです。
70代~80代の高齢者の多くがインターネットを見ません。
現在、福岡にて私の会社はチラシで70代~80代のお父さん、お母さん向けに宣伝広告しています。
だから今は【便利屋】暮らしなんでもお助け隊ヘの仕事の依頼は福岡の70代~80代のお父さん、お母さんから来ることが増えました。
東京で8年間行った便利屋とは?
私は大学卒業後、福岡で営業の仕事を行っていました。
仕事の関係上、1994年(平6) 東京に上京。
上京後も、営業の仕事を2年間行っていました。
1996年(平8) 脱サラし、便利屋 右近勝吉師の下で修業。
1997年(平9) 右近師より免許皆伝。
1997年(平9)東京都狛江市にて便利屋を開業しました。
8年間ずっと半径1キロメートルのごく限られた地域でチラシを配り、チラシから依頼が来たお客様宅で仕事を行っていました。
私の顧客のほとんどは、近所に住んでいるご近所さんです。
1キロメートル、この非常に狭い範囲の中でも十分に仕事があり、私はお家に関する様々な依頼を受けていました。
この狛江市の1km範囲内の極狭い地域で、お客様の8割以上が70代~80代のお父さんお母さんでした。
チラシである程度固定客がついた後は、お客様宅を定期的にお伺いし、何かご心配事がないか、お困り事がないかをお聞きする「ご用聞き」として仕事を行うように。
高齢のお父さんお母さんのお宅にお伺いし、お困りの事があれば、私が代わりに解決するというような感じです。
「ご用聞き」として仕事を行うようになってからは、仕事が途切れることなく次々と来るようになりました。
仕事を依頼された70代~80代のお父さんお母さんからは「山口さんが色々してくれるので、安心して暮らせるよ!頼りにしているね!いつもありがとう!感謝しているよ。」と言って頂きました。
信頼され、頼りにされて、お家に関することであれば、あらとあらゆる仕事の依頼が来ました。
直接、お客様ご本人から喜びの声、感謝の声を頂け、様々な仕事を任せられていましたので、「私がやっている仕事は人様にお役に立てているんだ」と実感でき、非常にやりがいを感じていました。
作業の終わりには、お父さんお母さんとお茶をいただきながら世間話を。
近所を歩いていれば、お父さんお母さんとばったり会って立ち話。
「〇〇さん、最近会っていないけど元気にしてるかなぁ?」っと気になって、ご近所なのでお家におじゃますることも。
家におじゃますれば、お茶を勧められて、また世間話を。
そんな世間話や立ち話中に「あっ!そういえば、◯◯の調子が悪いのよ!ちょっと見てくれない。」と仕事の依頼。
このようなやりとりが日常茶飯事でした。
そのうち、70代~80代のお父さんお母さんの息子様、娘様、お孫様からも仕事のご依頼を頂くように。
さらに、お父さんお母さんのお友達やご近所さんからのご紹介、口コミの輪も広がっていったのです。
お客様との交流が密になり親しくなるにつれ、一緒に旅行に行ったり、食事に一緒に行ったり、芝居、演劇を一緒に見にいくような親しいお客様も増えていきました。
●高田さん(70代 女性 仮名)とは、よく夕食や映画、演劇をご一緒に。
●米村さん(70代 仮名)は、私にとって東京のお母さん的な存在です。
作業の度に昼食を用意していただき、一緒に食事を。
いつもたくさん元気を頂いていました。
●戦争体験など毎回、貴重なお話しを教えて頂いた大城さん(80代 女性 仮名)
●お伺いする度に、経営アドバイスして頂いた東京の父親的な存在の立花さん(70代 男性 現役で経営顧問をされていました 仮名)
その他まだまだたくさんのお客様と親しくしていただきました。
開業し3年後にはチラシで宣伝広告しなくても、仕事依頼が途切れることがなくなりました。
毎日仕事に追われ、1つ1つの仕事をこなすことに追われ、毎日忙しく、充実した日々を送っていました。
あっと言う間に8年が過ぎた感じです。
私は、「今の仕事を、この町で一生涯、続けていくのだろうなぁ」とばくぜんとですが思っていました。
なぜ福岡に帰省?
2005年(平17)の春、福岡の実家から1本の電話が!
母からです。
「お父さんが脳梗塞で入院した」とのこと。
精密検査したところ、脳梗塞以外に大腸ガンも見つかり手術を。
幸い、脳梗塞も大腸ガンも早期発見で大事には至りませんでした。
しかしその後、すぐに肝臓ガンが見つかり再手術。
たて続けに手術し、体力的にも精神的にもかなりダメージを受けた父は「もうオレはダメだ」と自暴自棄に。毎晩のように飲み歩き午前様。
父を看病していた母は、父のことを心配し注意しても、まったく言うことを聞かない父、
父の看病にほとほと疲れ果てしまい、母は精神的に弱り不眠症と幻覚症状に悩まされていたようです。
まったくそんなことはなかったですが、母の私物を父が取ったと言っては、それが引き金となり、父母間で口論、ケガなどトラブルが多発。
トラブルが発生する度に、一人息子である私が呼ばれ、両親の仲裁役で、東京と福岡の間を往復しました。
私が実家に帰るとトラブルは収まり、私が東京に戻ると再びトラブルが発生。
父母のトラブルで月に4~5回 東京福岡間を往復しました。
ひどい時は福岡から東京に帰った3日後に、再び東京から福岡へ日帰りで往復ということも。
福岡にいる時は、東京の妻と生まれたばかりの0才児の娘のことが心配。
東京にいる時は、病んだ父親と母親が心配。
この時期、仕事もたいへん忙しかったので精神的にも体力的にもギリギリの状態でした。
度重なるトラブルの仲裁が続いたので、私はほとほと疲れ果て、東京福岡間を月に何度も往復することにも限界を感じてきました。
私は一人っ子。
いつかは親の面倒を看なければいけないとは幼い時からずっと覚悟はしていましたが、今まさにその時が来たと思いました。
一人息子の責務として、私が福岡に帰省し、しっかり両親の面倒を看なければと決意。
2005年(平成17年)の夏、妻とその当時0才だった娘と一緒に福岡へ帰省しました。
福岡の親戚に頼れなかったのか?
実は、私が両親のトラブルが相次いだ時に、自分一人で重荷を背負うのがしんどく、親戚を頼りました。
ずっと疎遠な親戚だったので、困った時だけお願いするのは厚かましいのではないかとずいぶん悩みました。
しかし、私一人ではもう対処するのに限界でしたので、悩んだ末に親戚に電話で相談したのです。
最初に電話したのが、同じ福岡に住む母の兄、私にとって伯父でした。
伯父は、親戚一同の中で、親戚誰もが一番頼りにしていた相談役です。
「私の父が私の母の私物を取っていないことを、伯父さんからも言ってほしい」とお願いしました。
しかし、伯父は母の兄です。
自分の可愛い妹が言っていることが100%正しく、私の父と私が悪いと思っていたようです。
「お前の父親が悪い、それを黙って正さず、母をおいて東京に行ったお前が一番悪い」と怒鳴られました。
そのような言葉が返ってくるとはまったく予想もしていなかったので、私は非常にショックを受けました。
伯父の言葉が私の心に深くつき刺さり、伯父の言葉が引き金となり、私は福岡に帰省することを決意したのです。
福岡に帰省するにしても、私の実家は当時、父母とも精神的に弱っていた為、ゴミ屋敷化していました。
とても、実家で同居することは出来ません。
しかたないので、仮の住まいということで実家最寄りのUR(公団)をインターネットで探し、ネットで予約。
最後は、現地確認と現地で契約書にサインするのみに。
現地確認と契約書にサインだけでしたので、わざわざそのためだけに私が福岡に帰るのも時間もお金もかかります。ですので、ずいぶんと疎遠になっていた福岡の従兄に、疎遠だったことへのお詫びと、URの現地確認と契約書にサインを私の代わりにやってもらえないかとお願いしました。
しかし、従兄から私のお願いは断られました。
結局、私が日帰りで東京福岡間を往復し、URの現地確認と契約書にサインしたのです。
私は心に余裕がなく切羽詰まっていました。
福岡に住む親戚に助けてもらいたかったのです。
今まで疎遠だったのに、困った時だけ頼るのは厚かましいとは重々分かっていました。
しかし、なんとかお願いできるのではないかと期待していた親戚二人に断られ、かなりショックでした。
親戚二人に断られたその時に、もう、私一人でやるしかないと思ったのです。
もし、福岡で両親のことを任せられる信頼・安心してお願いできる業者さんを知っていたなら、状況はずいぶん違ったのではないでしょうか。
その当時、親戚にも頼れず、福岡で信用・安心できる業者も知らず、実家の問題は、私が解決するしかないと覚悟したのです。
このような経験をしたからこそ、私と同じように、実家を離れて暮らすご家族が、ご実家、ご両親のことで困ったときに、私と同じ経験をしてもらいたくないと思ったからこそ、
ご家族様の立場に立って誠心誠意 作業を行う信頼・安心できる業者に私の会社がなろう、絶対にそうなりたいと思ったのです。
ゴミ屋敷となっていた実家を片付ける
私が東京から福岡へ帰省した当初、私は実家で両親と同居し、両親の面倒を看るつもりでした。
しかしその当時、実家はそのような状態ではとてもなかったのです。
恥ずかしい話ですが、父母ともに精神的に病んでいましたので、家の中はゴミ屋敷、庭も散らかり放題すごいことになっていました。
とりあえず私たち家族はUR(公団)に仮住まいして、実家の片付けを行うことに。
最終的には、2tトラック4台分 合計8tの実家のゴミを片付けました。
実家を片付け、リフォームし、きれいに掃除して、なんとか私と妻、娘が実家の2階に住めるように。
私にとって、お家の片付けは東京でいつもやっていた仕事なので得意分野です。
自分の実家の片付けぐらい私一人で十分だと思って自分一人で作業をはじめました。
しかし、自分の親の荷物を片付けるということが想像以上に大変だと言うことを実際に作業して思い知らされたのです。
「なんで部屋をこんな風になるまでほっといたのだろう?」
「捨てればいいのに、なんでこんなものをずっと大事に取っているのだろう?」
作業中ずっとゴミ屋敷にした親に対してフツフツと怒りの思いが湧き上がりました。
作業中、ずっと怒りが収まらず、その怒りに私自身が疲れ、途中でやる気がなくなり、作業することにストレスを感じたのです。
今まで相当な数のお客様宅の片付けを行ってきたのに、こんな気持ちになったのは初めての経験です。
片付けのプロでさえ、自分の実家の片付けに大きな負担を感じたわけですから、片付けに慣れていないご家族様はなおさらだと思いました。
ご実家の片付けは、想像以上に肉体的、精神的に負担が大きな作業です。
ご実家を一人で無理して片付けたことで具合が悪くなり、病院通いしているという話しもよく聞きます。
ご実家の片付けを途中まで行って、これ以上無理だと判断し、実家片付けを断念されたご家族は次のようにおっしゃいます。
「片付ける労力、時間、交通費、片付け費用考えると、必要な物だけ取って、後はぜんぶ業者に最初から頼んでおけば良かった!」と。
そうなんです。
ご家族でご実家を片付けるということは、ご自身の交通費、昼食代、宿泊費、無理して作業し体調をこわし病院への通院費など、時間とお金が想像以上に多く出ます。
時間的にも、業者に依頼すれば、数日で作業は完了しますが、
ご家族ご自身で片付けて、数か月、何年かかったというお話しもよく聞きます。
父にもし何かあれば母を福岡から東京へ呼ぶ? 母から意外な言葉が、、、
話しは、私が東京で仕事が軌道に乗り、一生涯、この東京都狛江市で暮らすのではないかと思っていた時にさかのぼります。
福岡の父にもし何かあった時は、母を東京に呼べばいいと考えていました。
なぜなら、私の母が、私に次のような言葉をよく言っていたからです。
「あなたが行くところに、私はどこでもついていくよ」と。
そのように言っていた母に、私の妻が妊娠し、子供が生まれる直前の1か月間、東京に来てもらい家事の手伝いをお願いしました。
私の母は1か月間、東京で私と妻と一緒に暮らしましたが、1か月が過ぎ、福岡に帰り際に母が言った言葉は、私が想像もしていなかった意外な言葉でした。
「私は東京での生活はちょっとね、、、やっぱり福岡がいい」と。
「あなたが行くところに、私はどこでもついていくよ」と言っていた母が、東京でたった1ヶ月間暮らしただけで、すぐに福岡に帰りたがったのです。
このように福岡に帰りたがった母のことを思い出す度に、私は鮮明に記憶がよみがえるお客様がいます。
同居したことをずっと後悔している東京都調布市の安田さん(70代 女性 仮名)
「私たちに一緒に同居しようと言ってくれた娘や娘のご主人にはたいへん感謝している。
だから、娘や娘のご主人には絶対に言えない。
でも、
同居するんじゃなかった。
お父さんを連れてくるんじゃなかった。
それを今でもずっと後悔している。」と。
競馬好きで毎日競馬場に通っていたご主人と一緒に安田さんは、娘夫婦と同居することに。
同居して、ご主人は競馬場から遠くなり、大好きな競馬に行くことが出来なくなったそうです。
やることがなくなり、毎日ずっとテレビの前から離れず、テレビばかり見ていたとのこと。
それからほどなく、ご主人は認知症に。
状況はどんどん悪くなり、夜、町を徘徊するように。
警察にもお願いし、家族みんなでご主人を探すこともよくあったそうです。
警察署から連絡があり、警察署に迎えに来た奥様を見て、「よぉ!」とニッコリ笑っていたご主人ですが、最終的には、奥さんを見ても誰かも分かず、無表情で家に帰ったとのこと。
「妻である私のことを忘れ、家族のことを忘れ、そのときが一番辛かった」と奥様は語られました。
息子さん、娘さんがお父さん、お母さんと同居することは最大の親孝行だと思います。
素晴らしいことだと思います。
私も一人息子、ずっとそう思っていました。
しかし、それはお父さん、お母さんが住み慣れたご実家に息子さん、娘さんが帰省し、ご一緒に同居するのであればという話しです。
自分が住み慣れた街から全く知らない街へ
高齢のお父さん、お母さんを連れていくのは、ご両親の幸せとはかぎらないのです。
ずっと住み慣れた、勝手のわかる、お友達がたくさんいる今の場所で元気な限り住んでいたい。
これがお父さんとお母さんの本心かもしれません。
私たち【便利屋】暮らしなんでもお助け隊は、住み慣れた、お友達のたくさんいる今の場所でお父さん、お母さんが元気に暮らせる、快適な暮らしができるように全力でフルサポートします。
離れて暮らすご家族の❝かけはし❞になることが私たちの使命です。
これからも、ふるさとを離れて遠方で暮らすご家族に代わってご実家・ご両親に関するお困り事を解決していきます。
さらに、ふるさとを離れて遠方で暮らし、ご実家やご両親のお困り事を解決してほしいご家族は福岡だけでなく全国にいらっしゃいます。
今後、遠方で暮らすご家族様とご実家・ご両親の❝かけはし❞となるお助け隊の仲間を全国に広げること、そして『仲間どうし、仲間のご実家やご両親のお困り事を解決する』そのような組織を作るのが私たちの新たな使命となりました。